「歴史的な作品を研究する意味はあるの?」

と聞かれることがあります。
本意としては、

「何十、何百年も前から存在する作品なんてすでに研究し尽くされているだろうに、

今のこの時代に新しく研究することはあるのか」

ということでしょう。
 
私たちが楽譜を手にしたとき、たいていの場合その場に作曲家はいません。
まだ活躍されている作曲家であっても、直接対面していないことがほとんどです。

むしろ、その場にいる(居合わせる)ことの方が珍しいはずです。
つまり、私たちは楽譜を通して、作曲家と間接的に対話しているわけです。
あまりにも前衛的な作品(偶然性を主とするような作品)は別として、

楽譜に書かれた音符や記号、文字など、すべての情報に意味があります。
楽譜を通して、どうして作曲家はこの音符を書いたのか、

長さ、高さ、調性、旋律、拍子、テンポ、演奏形態、…

その全てに必然性があるわけで、それを読み取ることは、すなわち作曲家と対話する行為となりえます。
さらに歌の場合、「作曲家はどのように詩を読んだのか」という新しい視点が加わります。
私は、この視点が大好きで、詩を読み込むたびに新しい発見があり、

自分なりの解釈が生まれれば、作曲家の読み方と比べることもでき、

作品(音楽も詩も)に深く接することを幸せに感じます。
 
「研究」というと、学者という肩書きのある人だけが許される行為のようですが、

実際は、この「見えざる者との対話」をすることが研究であり、

音楽でいえば、その音楽に対して真摯に向き合うことができる状態が研究なのだと思います。
別に、歴史的な発見や発明だけが研究ではないのです。
一つの音を見つめて、楽譜を通して作曲家と対話して、

その過程にある(かもしれない)自分なりの発見に感動することができれば、それが「研究」なのだと私は考えます。
 
「歴史的な作品を研究する意味」
…この質問をはじめて受けたとき、私はすぐに答えることができませんでした。
思いつくままに答えることもできたのでしょうが、なんだか押し付けがましい回答になってしまいそうで、

さらには当たり障りのない言葉を並べるだけになってしまいそうで、

モヤモヤと考えているうちに話題は別に移ってしまいました。
その相手とは、あんまり音楽関係の話をする間柄ではなかったこともあり、

深く掘り下げて語ることに戸惑いがあったことも事実です。
その場で話せなかったのは悔やまれますが、おかげで自分なりに考えることができたのはよかったかな、と思います。